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それから、数日が経った。たった一夜の関係、それに慣れていた林が瑀琳を思う事は当然のようになかった。だがあの夜以来、ふとした時に幼い日捕え、そして殺してしまった蝶の事をよく思い出すようになった。それは煙草の灰を落とすときや、部屋の電気を消すとき。瑠璃色の美しい羽が網膜の裏側で勢い良く蘇る。どうして────そう自問したとして、林の中にはその答えが浮かんではこなかった。
その日、林は自身のセクシャリティを知る友人のひとり、金子成彬と棗の店を訪れていた。林自身少し後ろめたい気もしたが、金子がどうしても行ってみたいと聞かなかったのだ。そしてその少しの後ろめたさも、何ひとつ変わらぬ態度でテーブル席に案内してくれた棗を前に、たちどころに消え失せた。
林は素早く視線を走らせ、瑀琳を探した。彼は丁度カウンター席の男の前で何かを作っているらしく、随分と夢中になっていて林の姿には気付いていないようだ。瑀琳には何ひとつ変わった様子はなく、林は心のどこかで安堵と落胆が共存しているのを感じた。
金子はそんな林の視線の先を追って、驚きの声を漏らした。
「うわ、凄い美人じゃん」
確かに、瑀琳は痩せ過ぎてはいるが造形は整っている。一重瞼といっても幅は広く、もう少し肉が付いていれば随分と高貴な雰囲気が出るのではないだろうか。
「あれでも使い捨て?」
「ん、ああ……そう、いつも通り」
使い捨てだなんて、言い方は幾らでもあるだろうに、嫌味なのはこの金子の癖だ。自身の行動も褒められたものではないが、同意の上に成り立っているのだから誰に何を言われる筋合いもないのだけれど。
「いい加減、おまえも落ち着いたらどうなんだ」
呆れたように吐き捨てられ、林は心の内で落ち着く意味を探していた。何故落ち着かなくてはいけないのか、林はその理由に未だ辿り着けていない。だからこそ未だこうして恋人も作らず、灼けるような一夜限りの愛に溺れているのだ。
深く思考している林を他所に瑀琳を観察していた金子は、不意に視線を戻し未だ悶々と考え込む林に問うた。
「なあ、本当にちゃんとした関係だったのか」
一瞬なんの事かと思案し、それが瑀琳との関係を聞いているのだと理解すると、林は思わず嘲笑を漏らす。
「ちゃんとしてたよ。割り切った関係だって、バカじゃない限り分かるはずでしょう。そもそもいきなりキスするような男の家にのこのこ来る奴だよ。他でも同じような事しているんじゃないの」
「聞こえるぞ」
「言葉わかんないんだって。中国人だから」
「え、中国人。へえ」
金子は驚いたように、再び瑀琳を振り返った。林もつられてバーカウンターに視線を向けると、驚くことに瑀琳の双眸は確かに自身を捉えていた。熱っぽい瞳はまるで愛を語らっているように濡れ、唯々切なげに林ばかりを写す。あれ程自分勝手に犯した相手を、あのような瞳で見詰める事が出来るだろうか。
一瞬見詰め合ったふたりを裂くよう、金子は言葉が分からないと知って気を大きくしたのか、先程よりも張った声で林も驚くような言葉を吐いた。
「どうなの。あっちの声もでかいの。て言うかさ、何でまた中国人なんだよ。どうせ外人に手出すならヨーロッパ系じゃないの。中国人って声でかいし全然配慮ないし、品がないじゃん。お国柄って言うの。家電量販店とか、あいつらに占拠されてて煩いのなんの。全員日本から出て行って欲しいよ」
林は思わず閉口してしまった。確かに、日本人の中で何があった訳でもなく中国人を毛嫌いしている人は多い。インターネットなどは特にそうだ。平気で差別用語を書き殴る。同じく、元々金子は意味もなく中国を嫌っていたが、林自身、これまでそれに注視する事はなく、この手の話になると適当な相槌で聞き流していた。だがどうした事か、今この瞬間、説明の出来ない生温い汚泥が胸に満ちてゆく心地がした。
林が思わず突然湧いたそれを吐き出そうとした、その時だった────。
「すみません、聞くつもりじゃなかったのですけれど、そんな大きな声で話をされているものですから」
ふたりがその声に驚いて視線を向けると、頼んでいたオリーブを片手に、棗が静かな笑みを讃えて立っていた。ふたりは棗の発する不穏な空気に圧され、同時に生唾を呑み込んだ。
「それで、思うのですけれど、今は昭和初期の軍閥と同じような思考の方々が多いみたいですね。大陸を見下し、自分達を指導民族とでも勘違いしているのか、何に於いても優位に立とうとする。一体戦争でもなさるおつもりですか?」
棗はそう言うと、怒りに美麗な微笑みを貼り付け、オリーブをそっと机に置いて去った。林はそれ程ちゃんとした常連と言う訳では無いけれど、どんな事があっても冷静に対応している棗の怒りを初めて目の当たりにした。確かに金子の発言は酒の所為にしたとしてもかなり配慮の欠けるもので、まるで母親に怒られた時のような、そんな気分であった。
「……怒らせた?」
「また連絡するから、今日は帰れよ」
金子は素直に頷くと、少しの金を置いてそそくさと店を後にした。林はそれを握ると、カウンター席へと移動した。もう終電はとうに終わり、客は林の他にカウンター席にひとりいるだけである。その客も、間も無く帰るような素振りを見せている。
「林さんももうお帰りですか」
電卓を叩いていた棗は林に視線を投げ、ぞんざいに問う。いや、林がそう感じただけなのかもしれないが、それによって余計に林は居た堪れない心地がした。
「すみません、気を悪くさせてしまって」
「いいえ、何を信じるか、何を排除するかはそれぞれですから」
素直に謝罪をした林を責める気もないのか、棗はそう言って優しく微笑んだ。その変わらぬ美しい笑みに、林は思わずほっと胸をなで下ろした。
ふと林の視線がカウンターの隅で客の男から会計を受け取る瑀琳の姿を捉える。数枚のお札を握った手には、黒いゴム手袋。そこで林は彼と重ねた夜の事を思い出した。白いシーツを握り締めていたその指先の、隠された傷痕────。
「あの子さ。片方の爪、全部無かったよ」
その言葉に、棗は珍しくあからさまに眉を顰めた。
「訳ありって」
「遊びならもっと上手くやって下さいね」
半ば食うように被せられ、林は微かな勝算を見ていた。触れられたくないその傷を引き合いに、もしかしたらこの男が手に入るのではないか、と。
「棗さんが遊んでくれるなら、もう手は出さない」
だが愚かな林を嘲笑うかのよう、棗は冷ややかながら妖艶に微笑んで見せた。
「僕が、誰のものでもないと思っています?」
「え、嘘でしょ?」
「秘密ですよ。林さんにしか言っていないんですから」
人差し指を口に立て肩を竦める姿は少年のように可憐で、だがその若さに見合わぬ落ち着いた濃密な色気は、数多の愛を手にし棄て去った老貴婦人と似通ったものに思われた。男女どちらをも虜にしてしまうこれ程贅沢な魅力を兼ね備えた青年が、まさか誰の手にも落ちていない訳がない。
あわよくば────それすらも捻り潰され、林は脱力感に苛まれ視線を逸らした。その先で、自身をじっと見詰める瞳が待ち構えていた。
「……惚れられたんですかね」
ぽつりと呟いた林の前で、棗は素知らぬ顔でグラスを磨いている。
「聞いてみたら如何です」
「言葉が分からないんでしょう。俺がここでどんなに罵ったって、彼には雑音にしか捉えられない」
棗が何かを言おうとした時、カウンターの客が席を立った。彼は慌てたように上着を取ると、カウンターから出て、客の見送りに向かった。
「有難う御座いました」
耳心地の良い声が遠退いてゆく。林はグラスに残った酒を煽り、再び視線を感じてそちらを見た。やはり、瑀琳が真っ直ぐに自身を見詰めている。粘り着くような、余りにも熱っぽい視線。
「俺に惚れたのかよ。とんだマゾヒストだな」
その挑発は、当然彼には伝わらない。だから林は育ちきった嗜虐心の囁くまま、唇に人差し指を当てて見せた。その瞬間、瑀琳の瞳が、先程よりも潤んだような気がした。
棗がいない間に店を後にし、林はマンションへと帰った。そして何時の日かと同じよう、ベランダに出てじっと薄暗がりに浮かぶエントランスを眺めていた。あの瞳の熱────来るに決まっている。だが、万一来なかったなら。その先を考え、林は身体が快感に打ち震える心地がした。あのサインを誘いだと捉えるか、否か。勘の良い人間ならば当然気付く。瑀琳はどちらだろうか。
その答えは、間も無く時計が三時を指す頃に示された。
マンションの前にタクシーが滑り込み、車内から現れたひとりの青年。周囲を軽く見回しながら、エントランスへと進む。林は意図せずに自身が嗤っている事に気付き、この仄暗い欲情に歓喜した。
林の元を訪れた瑀琳は、乱暴に引き込まれた玄関先で横暴な舌が絡んでも今度は抵抗と言う抵抗をしなかった。それどころか掻き抱かれ折れてしまいそうな貧弱な身体を必死でしならせて林の思うままに翻弄されている。だが余りにも従順なその態度が面白くなく、林は徐に必死で縋る瑀琳を突き飛ばした。後ろに流した前髪がはらりと落ちて、影の深い目元により重い紗を掛ける。その隙間から覗いた瞳は驚きに見開かれ、林を見上げ揺れる。
「好き者」
細い眉がぴくりと眉間に寄り、それがどう言う言葉なのかを必死に考えているようだ。だが、林は思考が落ち着くより先に、瑀琳の官能を弄った。性急に身を包むものを全て剥いでも、林はやはりロザリオだけは細い首に掛けたまま。時にそれから目を逸らし、しかし時に、十字架に架けられたその男を睨み付けながら瑀琳を犯した。
彼の信じるものの前で、罪を犯す。間違いなく瑀琳は背徳を味わっている筈だ。その清廉な心は、引き裂かれるように痛んでいる筈だ。林はそれを疑わなかった。
だが────瑀琳の瞳は変わらずに自身を傲慢に陵辱する林を見詰める。熱く、粘るように。それがどう言った感情から来るものかは分からないが、林はその瞳を見る度、更に瑀琳を酷く抱いた。