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 時計の秒針が時を刻み続ける中、林は少し早いリズムで響く鼓動を感じていた。まだ来ないと苛立っては、いや、閉店後の作業があるからまだ店なのだろうと自身を宥め、時計に視線をやる。何度も繰り返しているが、一向に時間は進まない。
 遂には我慢し切れず、林はバルコニーに出た。このマンションには全室広いバルコニーがあり、それが気に入っていた。夏には同僚とバーベキューなども催して、かなり良い働きをしてくれるのだ。そのバルコニーからは、マンションの入り口が丁度見下ろせるのだ。林の部屋は七階で、深夜の今は出入りする者も当然いないが、エントランスから漏れる光の中では、訪れる者の顔もよく見えるだろう。
 だが、待てど暮らせど林の視界に瑀琳の姿が映る事はなかった。確かに純情そうで、男を知らない顔をしてはいたが、そもそも無理矢理に唇を奪った男の部屋にのこのこ来る人間などいるのだろうか。何本目かの煙草に火を付け、林は焦燥が死んでゆくのを感じていた。愉しい時間は早かれ遅かれ終わりが来るもの。林はその事について理解が深かった。これまで一夜限りの関係を持ってきた、或は持とうとしてきた人々ともこんな風なやり方をしていたから。だからこそ、別段瑀琳が来ない事に微かな落胆はあれどそれもまた一夜限りのものである。僅かなれど愉しませてくれた事は事実。逆恨みなどするつもりも毛頭ない。
 とは言えそろそろ時刻も時刻。明日は休みだが一日中寝て過ごすなどしたくはない。故に自らのエンドラインを決めようと、林は新たな煙草に火を付け、何時まで待つかを考え始めていた。その時だった────。

 霞む視界に、タクシーのヘッドライトが強烈な閃光を放ったのだ。林は思わずバルコニーの手摺から身を乗り出した。実際問題此れ迄もここまで待って相手が来た試しはない。それにマンションの住人である可能性はかなり高い。だが、もしあの扉から瑀琳が姿を現したのなら、待ち侘びた時間が長すぎた故、その快感は何にも代えがたい程の物だろう。タクシーがゆっくりと弧を描くように入り口に近付く度、林の胸は高鳴ってゆく。久方ぶりの高揚感に、思わず息をする事さえ忘れた。
 そして、遂に林は歓喜を手に入れた。タクシーの後部座席から見えた人物は、紛れもなく、バーの片隅で俯いていた、美しい異国の青年であったのだ。

 消え掛けていた焔が再び熱を取り戻し、林は大慌てでバルコニーを離れ、瑀琳を迎える準備を始めた。苛立ちに散らした煙草の灰を綺麗に拭い、無駄な電気を全て消す。何も本当に会話をしようなどと思ってはいない。寧ろ言葉など何一つ必要では無くて、唯一夜の夢を見られれば良い。林はそう言う男であった。そもそも、夜の街に生きていて、この誘いがどう言う性質のものか気付かぬ者はいない。
 エントランスのオートロックを解除し、玄関の前でまたひたすらに待つ。ここまでゆっくりと来たとしても五分はかからない。それでも時はゆっくりと進み、遂に外に人の気配を感じた瞬間、待ち切れず林は扉を開いた。知らせずとも開け放たれた事に瑀琳は驚き目を丸くしていたが、林はそんな焦れったいやり取りをする気はない。扉をノックしようとしていたのか、宙で浮いた腕を引き、有無を言わせず部屋の中へと連れ込んだ。そのまま抱き竦めた身体は、思うよりも細く、そして頼りないものであった。薄暗いバーでは気付かなかったが、ちゃんと食べているのか疑わしい程である。
 だが予想に反し、瑀琳は弱々しくも明らかな困惑と拒絶を込めて林の胸を押し返した。
「何を純情ぶっているんだ。キスをした男の部屋に上がるなんて、そう言うつもりだろう」
 言葉が通じないとわかっているからこそ、普段言わないような冷たい言葉も滑るように口をつく。人間の残虐性が華開いて仕舞えば、後は転がるようであった。
 強引に塞いだ唇から、呻きに似た声が上がる。弱々しいながら必死で手足をばたつかせ、瑀琳は何とか逃れようと足掻いているようだ。それがまた、林の征服欲に火を点けた。痺れてゆく脳で、林は不思議に感じていた。此れ迄こんな風に強姦紛いの抱き方をした事はなかった。勿論この部屋に来た以上合意の上で身体を重ねるのだから、そんなつもりはなかったなどと言う輩はいなかったからではあるが、そもそもだとしたならば、瑀琳の態度は予想もしていなかった物である。だからこそ不思議なのだ。去る者は追わぬタチの林が、これ程夢中になる事が。

 ふと少年時代、家族で避暑に出掛けた山中で見付けた美しい蝶を捕らえようと躍起になった事を思い出す。網で追い掛け回し、やっとの思いで捕まえたあの美しい蝶は、どうなったのだったろうか────。

 痩せこけた身体を軽々と抱き上げ、ベッドルームへと運び、身を包んでいる服を乱暴に剥ぎ取りながらも林が遥の記憶に思いを馳せていた時だ。突然鈍い音が響き、我に帰った林の視界の片隅で、何かが宙を舞った。木片が硬いフローリングと衝突し、軽い音が残酷な夜の時を止め、一瞬の静寂を呼ぶ。床に寝転んだものは、既に肩口まではだけた白いワイシャツの下に隠されていた大ぶりのクロス。それは、ファッションで付けるネックレスなどではないと、林は直感で感じ取った。十字架に架けられたイエス────それは紛れもなく、ロザリオである。

 瑀琳は此れ迄の消極的な弱さが嘘のよう、その瞬間だけ、まるで気が触れたかのように爆発的な感情を露わにした。組み敷かれた身体を跳ね上げ逃れると、慌てて拾い上げたロザリオをまるで大切な宝物を落としてしまった子供のように抱き締めている。林は典型的な無宗教の日本人である。だが、それなりに社会的地位があるが故、様々な宗教を信仰する人々を見てきた。中には凡そ理解が難しい場合もあったが、林自身、それを彼等のアイデンティティとして受け入れる器は持っていたから、それ程特別視も、苦労もしなかった。
 瑀琳はそれ以上動く気はないようで、ロザリオを抱いたまま蹲っている。丁度良く冷えた頭を掻いて、林は堅く握った掌の中からそっとそれを取り、元の位置に掛け直してやった。驚きに満ちた瞳は濡れ、今にも溢れそうな涙が、下瞼の上で逡巡している。林はその時に、自身の脳が長い待ち惚けによりどれ程に熱せられていたかに気付かされた。この手のタイプは、力任せに押せば押すほど心を閉ざしてゆく。乱暴に扱われる事を快楽とは捉えない類の人種である。代わりに、嘘偽りであっても優愛の前にはとことん脆い。
 床にへたり込んでいた瑀琳を抱き上げ、優しく唇を塞ぐ。飢えた獣のように襲い掛かって来た男の突然の変貌に、瑀琳は混乱故頭が追い付いていないようだ。それを良い事に、林は出来得る限り優しく頬を愛撫し、もどかしい程緩く唇を吸った。そうしていれば案の定、先程までの弱々しい抵抗さえ忘れ、瑀琳は恥じらうように瞼を伏せ、林に身を委ねた。
 言葉の通じぬ二人は、肌を合わせる事でしか心を伝える術がない。林は暗示のよう、瑀琳への愛を指先に込めた。薄いシャツの上から細い身体のラインを辿り、背中の窪みに沿って這わせた指が神経に触れるたび、瑀琳は微かな身動ぎをしている。林は相変わらず優しいキスを続けたまま、その全てを探していた。
 肩甲骨の下辺りを掠めた瞬間、痩せた身体がびくりと跳ね上がり、塞がれた唇の隙間からくぐもった声が漏れた。どうやら背中のその一点と、臍の脇が彼の核心のようだ。それを知ると、林は漸く唇を離し、瑀琳を真っ直ぐに見詰めた。上手く酸素が取り込めず、肩で息を吐きながら、漆黒の瞳は融けて煌めいている。なんて簡単なんだと驚きながらも、林は瑀琳を軽々と抱き上げ再びベッドに沈めた。瑀琳はもう、抵抗はしなかった。それでも不安気な瞳が、薄闇の中で林を探し彷徨っている。
 深い瞳を見下ろしながら、林は遂に乱れたシャツに手を掛けた。ボタンがぷつんと弾け、透けるように白い肌が露わになってゆく。黒いシャツから現れた裸体は肋骨の浮いた、決して褒められたものではない。まるで、人類の罪を全て背負い十字架に架けられたイエスそのものである。それでも、林はより深い欲情に駆られた。待ち切れず、首筋に唇を落とした瞬間、白い喉が待ち侘びたように震え、薄い胸が押し上げられる。林もまた待ち切れず、肌の色に映える薄桃色の胸の飾りを乱暴に摘み上げ、瑀琳の中に潜む性を目覚めさせることに全神経を集中させた。
 指で、舌で、身体を暴いている内、細身のスラックスの中心に膨らみを見付け、林は遂にベルトに手を掛けた。驚いた瑀琳がその手を止めようと再び抵抗を試みたが、時既に遅し。覆い被さるように密着した素肌は妬けるように熱く、もう身体を跳ね除ける事も、その魔の手から逃れる事も出来ない。一体これから何が成されるのか、知っているのかいないのか。瑀琳は終いには、硬く瞼を閉じた。その目尻から、光る礫が頬を滑り落ちて行った。
 林は身を包む全てを剥ぎ取り、それでもロザリオだけは奪う事はしなかった。それは、ある種の興奮材料にもなっていたのだ。神聖なもの程卑猥だと、かの文豪が豪語していた。それを、林は身を以て今感じていた。何も林自身、今瑀琳の胸元で揺れるイエスそのものが神聖であるとは微塵も思っていない。だが、宗教と言うものに縋り付いている瑀琳の精神、そしてその精神から来る彼の容貌の悲観的な美しさは、神聖なものに違いなかった。それをこれから犯そうとしているのだ。触れられた事も無いであろう秘部を傷付け、彼の中に眠る本能的な性への欲求を内側から抉ってやるのだ。そう考えるだけで昇り詰めそうになり、林は性急に瑀琳の身体をうつ伏せに寝かせ、膝を立てさせ突き出した双丘の隙間に指を捩じ込んだ。余りの暴挙に瑀琳は思わず悲鳴を上げ、腰を引いて抵抗を始める。林は平手を二度、三度と、揺れる尻朶目掛けて振り下ろした。目の醒めるような子気味の良い音に混じり、瑀琳の切な気な声が上がる。
 遂には観念したのか、瑀琳は腰を突き上げたまま、涙を零し何かを呟いている。消え入りそうな声は聞き取り辛く、しかしそれよりも、既に三本目となった指の蠢めきに合わせ、その呟きが喘ぎとなる瞬間の熱に、林の神経は魘されていた。瑀琳の嬌声は尾を引くような儚さがある。決して本意では無いにしろ、それは男の支配欲をよくよく刺激した。
 林はその声を聴いている内に我慢が利かず、柔らかくなった襞を押し拡げ、一気に腰を押し進めた。瑀琳は苦しく短い吐息を吐き出し、痛みから逃れるよう必死でシーツを握り締める。流され受け入れてはいたものの、初めての痛みは相当なもののようだ。だが、手を緩める訳がない。ずり、ずりと肉壁を割って射し込む度に、林もまた悩まし気な吐息を漏らした。身体が侵入者を追い出そうと躍動している様子が、敏感な神経を通じて伝わって来る。その卑猥な蠢きが、ゆるやかだった律動のスピードを上げてゆく。我を忘れ、林は狂ったように欲望をぶつけた。瑀琳は激しく突き立てられた杭が最奥を穿つ度、最早喘ぎとも付かぬ悲鳴を上げる。それは快感から来るものでは無い。確実な生命の危機感からであった。しかし、強く腰を掴まれ、敏感な秘部に腰を打ち付けられていては、到底抵抗も出来ず、唯々背後で快楽の高みへと向かう男の思うまま、身体を差し出すばかり。

 やがて一方的な欲望が爆ぜ、時が一瞬止まった刹那。林はふと昇り始めた朝日の一閃に視線を奪われ、我に帰った。彼が黒いゴム手袋をしているのだ。興奮に侵され気付かなかった事に愕然とし、林はこの行為に不釣り合いなそれを乱暴に剥ぎ取った。そして、目の前に開けた現実に、再び絶句する事となった。
「それ……どうしたの」
 当然瑀琳がそれに答える事はなく、突然動きを止めた男から逃れるよう、残る力でもがいている。
 林は余りにも異質に思われる目の前の現実に頭が冷え切り、ゆっくりと杭を引き抜いた。蓋をなくした口から溢れた泡立った白濁が、太腿を伝い落ちる。その一線は穢れたものとも思えぬ、神々しい煌めきを放っていた。
 その時、直感的に林は知った。この青年が、まだ夜の暗闇に侵されてはいない事を。白いシーツを巻き付けじっと耐えている姿は、蛹のように頑なで、何かに縋らなければ生き抜けぬ程に酷く幼く見えた。そして、ふと思い出したのだ。
 嗚呼、あの蝶は、死んでしまったのだ────と。

 林は乱暴に身体を拭うと、財布から一万円札を引き出し、荒い呼吸を繰り返しながらベッドの隅でシーツを握り締める瑀琳の目の前にそっと置いた。僅かな罪悪感がそうさせた。彼は、遊び相手としては相応しくは無かった。
 瑀琳は二度三度、林と一万円札の間で視線を泳がせ、そして、林が想像もしていなかった言葉を言ったのだ。
「謝謝────」
 痛みに顔を歪めながらも必死で造ったその醜い笑みが、林の脳裏に暫く残って離れなかった。