大袈裟にスプリングが軋む度、汗の礫が弾け飛ぶ。片脚を担ぎ上げられた青年は、その間に割り入れられた男の身体が規則的な律動を繰り返す度、狂おしく眉根を寄せ、それでも必死で男を悦ばせようと甘い喘ぎを漏らす。男は天井を見上げたまま瞼を閉じ、獣のように腰を振り、青年はまるで初めて愛された生娘のように、健気にそれを受け入れる。
夜が更けたマンションの一室。二人を結ぶものは、原始的な欲望のみであった。
事が終わり、男が満足してしまえば都会の闇夜に落ちた熱い夢も一瞬にして終わる。男は何事も無かったかのように煙草に火を付け、財布から引き抜いた一万円札を一枚、まるでゴミ屑のように、未だ荒い呼吸を繰り返す青年に投げ付けた。星の瞬きを亡くした大都会の闇夜よりも深い瞳が、薄暗がりの中、何かを訴えるように唯々男を見詰める。
「そんな目で俺を見るな。いらないのか。……わかる訳ないか」
男はそう言うと、壁に掛けられた時計を指差した。長針は七を指しており、短針は四を指している。今からシャワーを浴びて駅に向かえば、もう電車が動き始める時刻。幾度目かの男の行為を見詰めていた青年は、男の望む意図を知りながら、裸の胸を唯一飾るクロスをそっと握り締めた。遠慮を知らぬこの男の攻め方は、かなり身体に負担が掛かるのだ。動きたくとももう少し時間が欲しい。出来るのならば、一眠り位したい程だ。だが、もう二人の時は終焉を迎えている。後は素早くこのマンションを離れるだけ。
男は震える身体で何とか起き上がろうと奮闘する青年を横目で見やり、至極冷めた様子で吐き捨てた。
「やっぱりホテルの方が良いかなあ。こう言う時、面倒臭いんだよね」
青年は男の声に一瞬だけ顔を向け、だが直ぐに、長い睫毛が生え揃った瞼を閉じ、残る力を振り絞ってベッドから立ち上がった。一度立ててしまえば後は痛みと戦うばかりだから、何て事はない。
その日も、青年はひとり、見送られる事もなくマンションを後にした。
事の始まりは────そう、夏が終わり、乾いた風が鰯雲を運ぶ、秋の入り口頃の事だった。
その日、若手実業家である林修哉は仕事仲間と行った飲み屋で思いの外羽目を外してしまい、終電を逃していた。何時もならばタクシーを使うのだけれど、その日は気分も良かった所為で、そのまま帰る気にはなれなかった。
林はふらつく足取りで繁華街から少し離れ、裏寂れた路地裏に足を踏み入れる。其処には、随分前に知り合いである大手企業の重役に教えられた一軒のバーがあるのだ。最近忙しさにかまけて遠退いていたが、週に幾度かは思い出す程、林はそのバーが気に入っていた。バーが、と言うよりも、その店のオーナー兼バーテンである男の事を気に入っていたのだが。
そのバーは、蘇芳棗と言う、まだ若い青年がひとりで切り盛りしている店である。棗はまるで造物のような美貌と、暗い妖艶さ。そして老若男女全てに対応出来る話術を持つ青年で、そのバーに通う者は皆、彼目当てと言っても過言ではない。だがまだ二十五、六歳程度と若いながら、繁華街を少し外れているとは言え一等地に店を構えている事から考えても、普通の青年ではない。下世話な噂話しによればかなり危ない男の囲い者だとか、複数のパトロンに飼われているだとか、嫌な妄想は絶えない。故に、客は皆口説く事も出来ず、高嶺の花と崇めるばかり。それでも彼の言葉と眼福を得に来る者は後を絶たない。林もまた、その内のひとりである。
ネオンサインも何もない、小さなハロゲン球の柑子色だけが微かに漆黒の扉に彫られた『Bar Cradle』と言う小さな文字を弱く照らすバーの扉を、林は酔いに任せ迷う事なく押し開けた。店内は薄暗く、カウンター席が四席と、テーブル席が二つあるだけである。良心的な値段設定ではない所為で、来る者は皆それなりに金と時間を持て余す富裕層ばかり。だからこの店は、終電が過ぎると大概独身貴族が特等席であるカウンターを陣取るだけとなるのだ。
その日も案の定、カウンターに大柄な男がひとりと、テーブル席に水商売らしい風体の女がふたりいるだけであった。
バーカウンターの中、大柄な男と語らっていた青年は、控え目に客の来店を知らせるベルの音に気付き入り口の扉に視線を投げ、林の姿を認めると直ぐに華が咲いたかのような柔らかな微笑を浮かべた。
「いらっしゃいませ。林さん、随分お久しぶりですね」
辺りの会話を邪魔せず、だが本人には真っ直ぐに届く月夜の水面のような声が林を迎える。彼こそが、一目見た人間全てを虜にしてしまう、蘇芳 棗その人である。
「今晩は」
名前まで覚えていてくれた事に喜びを隠し切れず、林は柄にもなくはにかんでそう答えた。促されるままカウンター席に腰を落ち着けたのも束の間、林はスーツの上着を脱ぎながら、注文もそっちのけで、まるで恋人の機嫌でも伺うかのように舌を回す。
「もっと頻繁に来たいのだけれど、中々忙しくて」
当の棗は何ら気にする素振りも見せず、相変わらず美しい微笑みを浮かべながら、自然な仕草で林のスーツの上着を受け取った。
「顔を見せないと言う事は、充実していると言う事ですよ。この店に来て下さる方々は、皆大なり小なり不満を抱いているものですから」
林は胸に沁み入る心地よい声を聞きながら、そうかも知れないとひとり納得していた。
最近何かがあった訳ではない。バイセクシャルと言う自身の性質は、林にして見れば得以外の何物でもなく、仕事も上手く行っているし、金もある。恋人はいないが、それも望んでの事。本気になれる相手がいないから、一夜限りの相手を探すだけであり、それに対して何ら不自由も焦りも感じていない。
だが、決定的な何かが足りないのだ。何もかもが満たされている筈なのに、渇望を覚えてしまうのは、平和の齎す弊害である。だからこの何処か退廃と背中合わせにあるような暗い淀みが漂うこのバーに訪れては、美貌の青年を視線だけで愛で、手を出してはいけないと言う強烈なもどかしさに酔うのだ。それは人生に於いて、滅多に手に入れる事の出来ないある種の快楽である。
薄暗い店内に居ても不思議な漆黒の輝きを放ち続ける棗の美貌に見惚れながら、林がそんな思考に耽っていた時だ。不意に視界の隅に人影がちらついた。これ迄バーカウンターの中に棗以外の生き物が動いていた事はない。林は驚いて其方に視線を向ける。
カウンターの隅の方には、ひとりの青年の姿があった。慣れない手付きで白い小皿にオリーブを乗せているその青年は、歳はまだ二十歳になったばかりか、もう少し若くさえ見える。前髪を全て後ろに流し背伸びをしているからか、余計にその顔立ちの幼さは際立ってしまう。しかし古風ながら、彼もまたかなりの美形である。
「彼は?」
思わず問い掛けた林の視線の先を追い掛けた棗は、思い出したように声を上げた。
「ああ、初めてでしたね。最近雇ったんです。瑀琳、ちょっと」
棗が名を呼ぶと、青年は大袈裟に驚いて顔を上げた。切れ長の一重瞼は丸くなる程見開かれている。棗の手招きに慌てた様子で駆け寄ると、青年は怯えたように棗と林の間で視線を泳がせた。
「中国からきた、黄 瑀琳(ホァン ユーリン)です」
間近で見ると、瑀琳と言う名の異国の青年は益々見惚れる程の美形だと言う事が分かる。惜しいのは、隣に蘇芳 棗がいると言う事だけだ。
「さすが、綺麗な子を捕まえるね」
「そうでしょう?」
得意気な棗の横、彼は恥じらうように瞼を伏せて、軽い会釈をして見せた。
「初めまして、林修哉です」
林の言葉に、彼は少し困ったように棗を見上げた。普通店員ならば、自己紹介なり、他にも何らかの言葉を発する筈なのだが。不思議に思ったが、林は茶化すように身を乗り出して俯いた顔を覗き込んだ。
「喋れないの?」
そんな林の態度に、瑀琳は益々縮こまってしまった。頬を紅潮させてはいるが、まるで怯えているようにさえ見える。
「言葉がまだ分からないんですよ。今教えているところ。それに少し訳ありだから、あまり虐めないで下さいね」
棗が庇うようにふたりの間を割って入り、新人の紹介はそれっきり。林は気になって彼を観察してみたが、瑀琳はカウンターの隅でグラスを磨くか、棗の作ったカクテルをテーブル席に運ぶかしかしていない。それも、終始俯いたままである。言葉の通じない異国の地でひとりきりなのだから、それも仕方のない事なのかも知れないと、林はそれきり瑀琳の観察を止め、久し振りの棗との会話を愉しんだ。
林が来店し、一時間は経った。棗は他の客の相手に回っていて、林は手持ち無沙汰でひたすらにウイスキーを煽っていた。この店に客は林ひとりではないし、棗はひとりしかいない。故に仕方の無い事なのだ。分かってはいるが、身の程知らずの嫉妬を覚えてしまう。それも含め、皆この店を上手く愉しんでいる。
瑀琳が居座っていたカウンターの隅は棗の居場所と変わり、代わりに瑀琳は丁度林の目の前でグラスを磨いていた。薄い硝子に向けられたその憂気な瞳に見惚れているうち、林は手の届かぬ高嶺の花ではなく、目の前の異国の青年に欲情している自分に気が付いた。酒が入ると萎える男もいるが、林は逆であった。
林は衝動的に喉を震わせた。
「瑀琳────」
唐突に名を呼ばれ、瑀琳は驚いたように顔を上げた。潤んだ瞳が自身を映して揺れている事に、林はより強い欲情に駆られる。ふたりきりならば、彼の同意など関係も無く、押し倒してしまっていただろう。
だが林は酔いに逆上せた脳でも、冷静に瑀琳の観察を続けた。
「何時日本に来たの?」
瑀琳は微かに首を傾け、少しでも耳を林の唇に近付けようとする仕草を見せた。瞳は注意深く林を射抜き、聞き慣れぬ日本語の中で、僅かなヒントを得ようとしているようだ。林は横目で棗を見た。彼は常に店の隅々まで神経を研ぎ澄ましているから、この会話が聞こえればこちらに来ないとも限らない。それでは林の目論見は頓挫してしまうのだ。幸いにも棗は丁度水を流していて、声を落とせば聞こえないであろう。それが分かると、林は目の前の青年に視線を戻した。
だが此方を見ているとばかり思っていた瑀琳は、林を真似るよう、横目で棗を見詰めていた。そして林の視線が戻った事に気付くと、再び先程と同じよう、神経質な瞳が林を映す。その時、林は言葉の通じぬこの青年を物にする為の、微かな可能性を感じた。
「歳は幾つ?」
そう言いながら、林はバーカウンター越しに手を差し出す。瑀琳は開かれた掌を見詰め、一瞬思案した後、同じように林に向けて手を差し出した。彼は黒いゴム手袋を嵌めていて、だがそんな事に気を取られるよりも、林は歓喜した。仄暗いこの計画が、成功を収める予感がしてならないのだ。
「何をしているのですか」
不意に瑀琳の傍らに寄り添うように現れた棗は、和かな笑みに隠し、釘をさすように林に視線を投げた。林は一瞬息を詰め、それでも何事もないように、微笑んで見せた。
「手相でも見ようかなって」
棗はへえと小さく漏らし、スラックスのポケットから携帯を取り出し何かを打ち込むと、直ぐに瑀琳の顔を覗き込み、優しく微笑んだ。
「瑀琳、タァカンショーシャン」
瑀琳は少し考えた後に小さく頷き、黒いゴムの手袋を脱ぐと再び手を差し出して見せた。棗がたどたどしい中国語で彼に何を言ったのか、当然林にはまるで分からない。
「何て言ったの」
「彼が手相を見てくれる、と。今は便利ですね」
そう言って携帯を振ると、棗は思い出したように林の背後に視線を投げた。その先を追って、林は思わず小さな悲鳴を上げそうになる。林の背後には、音も無く男が立ち竦んでいたのだ。
その男は確かにこの店にいた。林が来る前から、カウンターの端にずっと鎮座していた。だがまるで気配を消しているかのようで、これ程の大男にも関わらず今の今までその存在を意識する事は無かった。目尻の垂れた三白眼は、まるで凍る湖畔のように閑かで、その身体から流れ出る空気は、宛ら抜き身の刃。言うなれば手負いの獅子。相手は客なのだから仕方の無い事だが、林は棗が不憫に思った。しかし、当の本人は何ら怯える様子もなく、それどころか分け隔てない微笑で男に軽く頭を下げた。
「ごめんなさい、直ぐに。林さん、ほんの少しだけ出ますので、瑀琳の事くれぐれも宜しくお願いしますね」
林にも頭を下げると、棗は大柄な男の腰に軽く手を添え、漆黒の扉に消えて行った。
ふと気付けば、店内に客は林の他にはいなかった。林は未だに差し出されていた瑀琳の手を左手で優しく握ると、自身の唇に右手の人差し指を当てて見せた。彼は戸惑いながら、同じように唇に人差し指を当てる。
「この後、俺の部屋で飲み直さないか」
林はそう言うと、ゆっくり頷いた。瑀琳はそれを真似るよう、恐る恐る首を縦に振った。
重い背徳心の齎す悦が、林の身も心も蝕んでいた。繋いだ手を軽く引く。反動でよろけた瑀琳が一歩近付いたその隙を突いて、林は薄く開いた唇を、己の唇で塞いだ。瑀琳は一瞬、何が起こったのかを理解出来ず、だが直ぐに弾かれるように飛び退いた。唇を両手で覆い、瞳を見開く瑀琳に微笑みかけながら、林は棗に倣い、携帯で素早く打ち込んだ言葉をバーカウンター越し瑀琳に向ける。その瞬間、白い頬が燃えるように色付く。耳までも赤く染まってゆく様は、薄暗い店内でもよく分かる。相変わらず怯えた様子だが、それは嫌悪感ではない。
「それじゃあ」
自宅マンションの住所をコースターに素早く書き、林は未だ呆然としている瑀琳の白いワイシャツとタブリエの間に差し込み、少し多めの金を置いて、店を後にした。
店を出てタクシー乗り込んだ林は、脳の深くまで酒が回る感覚に酔い痴れる。〝話しがしたいから、仕事が終わったらここに来て欲しい〟と、インターネットの翻訳サイトで素早く中国語へと変換したそのメッセージは、瑀琳の反応を見る限りしっかり伝わっている。来る来ないは全く彼の自由。こんな横暴な振る舞いをしておいて、それは来ない可能性の方が大きい。だが、万が一にも来るかも知れない。何方に転んでも、林は良かった。彼を待つ間心を蝕む焦燥すら、堪らない快感なのだ。